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FUKUOKA BEAT REVOLUTION

1980年のザ・モッズ――『ステディ・ロック・ファンクション』の2日後、映画『狂い咲きサンダーロード』のサントラを制作した!

ドラマには続きがある。そして、それは必ずしもドラマの筋書のようにうまくはいかないこともあるだろう。1980年4月1日に『ステディ・ロック・ファンクション』に出演したザ・モッズは、翌1981年6月にデビューしている。ザ・ロッカーズは1980年9月、ザ・ルースターズは同じく1980年11月にそれぞれデビューしているが、ザ・モッズだけは半年ほど、デビューが遅れることになった。しかし、それには理由がある。既に彼らの“バイオグラフィー“には書かれていることだが、具体的にその前後に彼らが何をしたか、また、当時の肉声は伝わっていない。


プロとしてデビューする契機になった同郷の石井聰亙(現在は石井岳龍)監督の映画『狂い咲きサンダーロード』のサウンドトラックのレコーディングを行ったのは『ステディ・ロック・ファンクション』から2日後、1980年4月3日のことだった。同作の音源が彼らから届いたのは数日後、そのテープを聴いた時の衝撃はいまでも忘れられない。破格の音だった。


そのテープは瞬く間に業界に出回り、各レコード会社が蠢く。ザ・モッズは『ステディ・ロック・ファンクション』で彼らを見初めたあるレコード会社と契約し、デモテープを作ることになった。結局、同レコード会社との交渉は決裂。その経験は「WATCH YOUR STEP」と「TWO PUNKS」という名曲を生むことになる。

実は、40年前、福岡の「親不孝通り」にあった伝説のライブ・ハウス「80’s Factory」と長浜公園を挟んだところにあった“てっしー村”の喫茶店「ポパイの好きなホウレン草」で、ザ・モッズのインタビューを行っているのだ。1980年7月のことである。前述通り、石井聰亙監督の映画『狂い咲きサンダーロード』のサウンドトラックの録音を4月に終え、その録音が契機となり、森山達也、北里晃一、苣木寛之、梶浦雅裕という翌1981年6月にデビューする4人が揃い、半年間の活動休止を経て、新たなスタートを切るところだった。まだ、あるレコード会社と交渉が決裂する前のことだ。



今回、抜粋して掲載したインタビューは『ROCK STEADY』(1980年10月号)に「全国ロック・シーン・リポート『THE ROCK MAP』」という日本各地のロック・シーンにスポットを当てる連載記事<博多編>の中で、特別企画としてザ・モッズの森山達也にインタビューを行ったもの。デビュー前の彼らに3ページもの誌面を割いている。まさに破格の扱いだろう。



――『狂い咲きサンダーロード』の映画音楽をやるようになったきっかけは?

森山 浅田くんという俺達のマネージャーと、石井監督が友達かなんかなんですよ。映画作るという話聞いて、「音楽まだ決まってない」と言うんで、「じゃあ、博多にモッズという絶対いかしとるバンドがいるから、一回聞こう」と監督に話して、音も良いテープ送ったんですよ。結構、気に入ってくれて、「面白いけん、使いますから」と言うことで、博多まで出て行って、録音立ち会ってくれて。他に泉谷しげると、パンタ&HAL、アナーキーも入っていたかな。結局、泉谷中心で、俺達はBGMというか、効果音というか。ばってん、俺達が一番すごいと思うんよね。一番大事な時に泉谷しげるがとるのは当たり前やけど、俺は監督失敗したなと思ったね。


――映画のために結局、何曲書いたことになるの?

森山 歌入り6曲、インストが7曲ぐらい。ミックス・ダウンまで終わらせるのに全部一日だった。もう一睡もしてないし、4月3日の昼頃から入って、次の日の朝7時まで。録音はスタジオ19です。きつかったね。眠いわ、暑いわ。だけん、映画音楽がなかったら、このメンバーとどうのこうのというのは分かりませんしね。そういうのがきっかけだった。実際、去年のクリスマスぐらいに最後のステージでコンサートやめて、メンバーは揃ってなかった。まだ、俺と北里の二人はおるけど、俺も一人でやろうかなとか、北里も新しいバンドやろうかなという感じやったですよ。ところが映画音楽の話きて、これはせめて映画音楽だけでもしてみようかということで、メンバー集まりよったから。その前から知っとったけん、良いタイコ(梶浦雅弘)とギター(苣木寛之)やけん、一応手伝ってくれて。ギターをやってくれた白浜(白浜久)も昔の仲間やけん。キーボードは浅田くんがどっかから連れてくるということで、九大の学生さんやけど、Mr.ツルというの連れてきた。全部で集まって15回ぐらいの練習で、曲も上げらないかんし、インストも作らないかんし、結構ハードでね。なかなかうまくいって、録音も良い感じでしたでしょう。映画音楽終わったところで、じゃあ俺はどうしょうか考えて、考えたら、とにかく良い話がきよったでしょ、ステディの方から。ロック・ファンクションとか、レコード会社でモッズが話題になりよっているとか。これはがんばらなかったら、いままでの5、6年した努力がずっとバカんなるというんで、どうせやるなら東京へ行って、名前売ってから好きなことやっても良いねと思うようになって、じゃあ、北里もう一回やるぜということで。タイコは梶浦が良いよ。ギターは苣木が良いよ。俺もギター弾こうということで、新しいイメージでやろうということで、去年12月から、6月活動で、半年間のブランクを抜けて、モッズは今旅立とうとしている。


――博多において、何をやってみたい?

森山 変な意味じゃなくて博多大事にしていきたい。だけん博多に執着して、博多だけでどうのこうのという気はない。ただ博多は自分の生まれた街やけん。捨てきらんと思う。とにかくオリジナルというものをもっと浸透させたいっていうか、本当に楽しいロックンロール、かつ本当に熱いステージ、金払って良かったなと思うような自分達のロックというか、それをどんどん増やしたいし、俺達を見てギターを弾きだした少年達をもっと増やしたいし、とにかく生活に溶け込ませたい。それがやっぱ一番博多でしたいこと。「あっ、今日は良かった」、明日から振り出しに戻るっちゃないで、「良かったな。俺もやってみようか」、人間の生き方を変えるといったら大げさばってん、一つ何か目覚めさしたい。初めは一人や二人やけど、そのうち10人にして、そのうち100人にしててって。「もう博多はロックの街だ!」と。博多の街を歩けばモッズはおるわ、ロッカーズはおるわ、スキンヘッズはおるわ、こりゃすごいちゅうか、博多は日本でも違うぜって、そうなりたいなと思う。面白いと思うけどね。夢みたいな話やけど。せめて俺達がライブやる日は、ライブ・ハウスの回りの町内はモッズ族で埋もれるとか、パンクス族で埋もれている。そんな傾向を見せたら新聞も飛びつくし、テレビの報道も出るし、ロックというのはそうした動きあるし、イギリスでもアメリカでもやりよるのに、何で日本でやれんか。ここまで楽器も、音楽性も普及しておるし、テクニックも上達してんのに、やれんのはそこだけ。この際、変えてみたら面白い違うかなと思う。


――ある種、社会現象みたいな?

森山 そこまでやると本当しめたものですよ。俺達一バンドじゃ無理じゃと思うけん、いろんなバンドが出て考えたらえんじゃないかと思う。ただ、皆食うためにはまず……俺もそげんいつなるかも分らんけど、まだ、考えたくない。それまでやってみたいなと思う。今、理想でもかまわんと思うし、俺達は現在レコードも出してない、レッテルはられりゃアマチュアやし、そういう意味では好き勝手なこと言えるし、好き勝手なこと出来ると思うけん。せめてその間は思うことやってみたいね。というか、壁は来るけんね。壁が来たら考えりゃいいし。ここまではこうやって、あそこまではこうやっていこうというように、30過ぎたら食わないかんとか、そんなこと別に考えん。本当に食うためだったら音楽やめたら楽思うし。俺の同級のやつなんか、サラリーマンで結婚しちゃうやつもいるし。しょうがないですね、という感じでこれやるしかない。金に変えられん何か、ステージ見る方はうらやましいと思う。俺なんか見て、客があんだけワァー、絶対、あんた達には出来んことですよということで、俺の同級生に「見てみろ。俺はこげん素晴らしいことしている。金はないばってん、モッズの社長です」って言いたいですね。君達はどっかの平社員。俺はモッズの社長。それは資本金というものの差はあるけど。


――現状として、博多ではバンドで食っていけない?

森山 とんでもない。飛んでも3分。歩いたら100分くらいかかる。


――ある程度、コンテストとか、ああいう感じで?

森山 そうですね。結局、博多もコンテスト中心で。簡単でしょ、コンテストって。ひょっとして一晩明けたらスター。やっぱりコンテストとか、ああいうのは皆、夢見取る。そして、結局、力つかないまま落ちていくバンドもある。俺達もコンテスト出て、俺達はライブ、コンサートで力つけていこう。本来のロックというものはこういうもんじゃない、ともう一回、改めて感じた。やってみないと分からんタイプやけん。やってみて、九州でグランプリ(YAMAHA主催のバンド・コンテスト『L-MOTION』で、1978年に開催された第5回大会でグランプリを受賞)とって、結局、何もなかったということだけ分かった。金も何千万もらうわけでもないし、待遇が良くなって生活が安定したわけもないし、ファンも増えたわけでもないし、ただ、少しは増えたと思う。別にそれだけのことであって……。


――ライブやコンサートで人気を作っていくしかないと。

森山 そうですね。やっぱりやりがいのあるし、もっと楽しいというか。客も喜んでくれる。コンテストで1、2曲やるより、1時間、2時間やった方が。それはともかくやってみて思いました。それ以来、コンテストには二度と出ないということにしていこうと。この前のロック・ファンクションは大きな汚点というか(笑)。一つは東京でやってみようという気持ちがあったんですよ。東京で一回やってみてNO.1になって結論を出そうということで納得したわけ。あれはあれで良かったんじゃないかな。何かきっかけになったし。


――今度、東京に出てくるわけだけど、それについてはどう?

森山 あまり変わらんですよ。東京に行ってどういう風に変わるかというのは分からないし、これしかないということでやっていくというのもあるし、それがあるけん面白い。変わるとしたら何か新しいものを注入していきたい。吸収していきたいと思っている。このまま10年も20年もやっても面白くないものね。


――レコードなんか出すことになると思うんだけど。

森山 分からん。それより東京の人達は勿論、北海道の人達にも知ってもらいたい。もっともっと多くの人達に分かってもらいたいし、もっともっと日本も良くなってもらいたい。レコード出すからには責任があるし、それだけの音を作っていくということ。発売して金を取るということは責任があるから、それをちゃんとやっていかなきゃいかん。まだこれという音ちゅうのはないけん、無責任なことでも許してもらえるところがあったと思うけど、これからはそうはいかない。今からやらなきゃいかん、そのポリシーでやっていかなきゃいかん。このメンバーやったら、それがやれると思うし、自信もあるし、失敗はせんと思います。



 

今回、再掲載したインタビューは前述通り、“アクシデント”が起こる前の取材記事である。同取材後、彼らに一波乱が巻き起こるわけだが、それは、また、別の話。改めて紹介する機会もあるだろう。何しろ、問題のデモテープを聞かせてもらい、問題のアーティスト写真も見せてもらっている。ロック・バンドがロック・バンドとしてデビューする……それを勘違いした大人達の間違いは改めて正しておかなければならない。


いずれにしろ、1980年のザ・モッズの“今”がわかるインタビューではないだろうか。同時に森山達也の時を経ても変わらない不退転の決意を再確認することができる。40年前の森山の発言は自ら活動することで、その多くを現実のものとしている。森山の一途なまでの奮闘努力が多くのKIDS達に夢と希望を与え、彼らに続けとばかり、楽器を手にし、歌いだした。そして、今も“博多は日本でも違う”ロック・シティであり続ける――。






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