めんたいロックなる言葉、知らぬ間に生まれ、いつのまにか、定着してしまった。言葉自体は40年も前に生まれたものだが、福岡のロックを紹介する際、いまだにその言葉で通じてしまう。いまでは福岡発のHPなどでも気軽に使われる。しかし、当時もいまも福岡出身のバンドの中にはその言葉に違和感を抱き、複雑な感情を持つものも少なくない。この“福岡BEAT革命”というHPを立ち上げる際に“めんたいロック”というタイトルを考えたこともあったが、あまりにも安直過ぎるので、少し堅苦しくなるものの、「福岡のBEATの革命」という“プロレス”めいたものにした。関係各所への忖度や配慮ではないが、総合的な判断からである(笑)。
「めんたいロック」という“言葉”の誕生には、某ライターが名付けた、また、某雑誌が特集で命名したなど、諸説ある。今回、改めてその誕生の背景を探るため、当時を知るSMASHの石飛智紹、ルースターズの元メンバーで、現ドリーミュージックの顧問の安藤広一、SMASHの小川大八のお三方に話を聞いた。彼らはルースターズの上京から解散まで、常に身近なところにいた、ルースターズ以上にルースターズを知る男達だ。石飛、安藤、小川に確認したところ、そもそも「めんたいロック」という言葉は、ルースターズ周りから発せられたものだったという。
ルースターズを他のロック・バンドと差別化し、彼らの魅力を伝えるためのキャッチフレーズとして、「めんたいロック」という言葉が生まれている。以前、ルースターズは某レコード会社とのトラブルを経て、ゴダイゴのレーベル「アワージョイ」(ディストロビューションは日本コロムビア)と契約し、デビューすることになったと紹介している。同レーベルはゴダイゴが所属するジェニカミュージックが関わっているが、ジェニカにはトムズキャビンの麻田浩、後にSMASHを立ち上げる日高正博なども所属していた。
デビューを控え、彼らを売り出すため、宣伝会議が開かれる。宣伝会議ではルースターズのエッジの効いた音を表現するキーワードを探していた。すると熊本出身の日高が九州名物 “めんたいロック”はどうだろうと、言い出した(“フジロック”の名付け親らしいシンプルな発想だった!)。
気づけば「ぴりりと辛いめんたいロック」が彼らのキャッチフレーズになってしまったという。いまでこそ、辛子明太子は全国で知られる名産だが、まだ、当時はそこまでの知名度はなかった。
特に北九州出身の石飛にとって、当時、辛子明太子は博多の名産であって、北九州の名産ではない。違和感を抱きながらも、ぴりりと辛いイメージには賛同して、自ら「めんたいロック」をプロモーショントークに使っていたという。1980年の時点では、辛子明太子は高級品であって、食べたことも無かった(ということはない!)が、それくらい二十歳の石飛には馴染みが薄すかったようだ。
その後、マスコミへのお披露目を兼ねたライブがシャネルズや山下久美子、佐野元春なども出演した新宿のライブハウス「ルイード」で開催されるが、ルイードの客席のテーブルには辛子明太子が出されていた。私自身も同会場にいたが、テーブルに辛子明太子が器に山盛りに出ていて、驚いたことを覚えている。ルースターズの刺激的な音とぴりりと辛い明太子の味の相乗効果(!?)か、「めんたいロック」という言葉は瞬く間に広がり、ルースターズと同時期にデビューしたロッカーズ、ルースターズのデビューの翌年にデビューするザ・モッズ、彼らに先駆けデビューしていたシーナ&ロケッツまでも「めんたいロック」と言われるようになってしまう。ある意味、彼らにとっては迷惑な話かもしれないが、よくも悪くもその言葉は強烈だったということだ。40年を経ったいまでも“通用”する。ルースターズのメンバー自身は「めんたいロック」には我関せず、気にしなかったらしいが、内心は複雑だったかもしれない(!?)。
実は辛子明太子と福岡(北九州ではない!)のロックには多少の関わりがある。おそらく、そんなことは当時、誰も気づいてなかったと思うが、2010年に出版された伝説のサンハウスのドラマーで、現在はHAKATA BEAT CLUBのメンバーにして、俳優としても活動する元ショットガンの浦田賢一の自伝『博多のぼせ バンドマン グラフティROLL』(集英社)に意外なエピソードが綴られている。サンハウスに参加する以前、1967年から3年間、福岡・中洲のダンスホールのレギュラー・バンドのドラマーをしていた浦田はステージを終えると、腹をすかして、中洲市場に出入りする。その中のある店の大将が浦田に会うたびに試食してみろと、出したのが当時、まだ、試行錯誤、暗中模索であった辛子明太子だった。その大将は明太子「ふくや」の創業者、川原俊夫だった。浦田は彼の実験台の一人だったのだ。川原は立志伝中の実業家で、博多式の辛子明太子を開発し、広めた人物として知られる。彼の生涯は2013年にテレビ西日本制作、博多華丸主演によって『めんたいぴりり』として連続ドラマ化されている。2019年には『映画 めんたいぴりり』が公開された。ちなみに浦田賢一が2010年、11年、12年、13年、14年に福岡のFMラジオ局「LOVE FM」で、期間限定でDJを務めた『ふくや presents 浦田賢一 ROLL』という番組では、タイトル通り、「ふくや」が番組提供している。
いずれにしろ、辛子明太子は「めんたいロック」同様、いまだにぴりりと辛い。現在は福岡だけでなく、北九州にも明太子を作るメーカーも出てきている。北九州市にふるさと納税すると、北九州産の美味しい明太子が貰えるみたいだ。
(写真左から)安藤広一、石飛智紹、小川大八のお三方。石飛智紹は1959年生まれ。ルースターズのメンバーらと同郷の北九州市の戸畑出身、大江、池畑とは同年齢。高校時代に“高塔山”で彼らと出会っている。1977年に一足先に大学入学のために上京。ルースターズの練習場所であり、彼らの面倒を見ていた小倉の松田楽器の諸藤和正の依頼で、ルースターズの東京での初代マネージャーになる。1984年に日高、麻田とともにSMASHを立ち上げ、“FUJIROCK”などでのルースターズのライブを始め、彼らといまも関わる。安藤広一は1959年生まれ。同じく北九州市若松出身で、北九州時代から交流がある。1979年、大学入学のために上京。ルースターズ上京後に彼らが住んだ場所と安藤の住むところが近かったため、ご近所付き合いが始まる。1981年にルースターズの京都・大坂・神戸ツアーの運転手を急遽、務めたことから彼らを手伝うことになり、1983年にはルースターズに加入。現在はビクター、スピードスターミュージック代表取締役、日本コロムビアA&C顧問を経てドリーミュージック顧問。小川大八は1960年生まれ。福岡の飯塚出身で、学生時代からルースターズと交流。ルースターズの前身、バラ族なども見ている。石飛や安藤らと同時期に上京。ちなみに安藤と小川は「北九州予備校黒崎校」の同級生である。学生時代からルースターズと交流。1984年にSMASHに就職、最初の解散までマネージャーを務めている。現在もルースターズのメンバーとは関わりが深い。石飛、安藤、小川にはルースターズの上京から解散まで、鼎談という形で、3時間近く、門外不出(!?)の秘話をたくさん聞いているので、いろいろと面白い話を小出しにしていく予定。楽しみにしてもらいたい。
興味深く読ませていただきました。
お三方の写真に興奮しましたwww 小川大八さん、すっかり変わりましたね~。
自分がライブに行っていた時は、アクシデンツファンのおねえ様方から
「大ちゃん、大ちゃん」とちやほやされていた記憶です。
ふっくらしてかわいかったですよね爆
当時、知人がsmashでバイトしていて、小川さんのいろんな話を聞いたりしましたよ。 安藤さんは、全然変わらないですねぇ…。
鼎談、ものすごく楽しみにしています!